神田教会について

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第11窓

第11窓
一、聖、公、使徒継承の教会を信じる。

この窓は聖書に書いてある教会の奥義をより分かりやすく絵画的に表現している。教会のシンボルは、絵や肖像で数多く表現されており、それによって啓示が教会の奥義を語っている。

教会とは唯一通らざるをえない門、つまりキリスにがいる羊小屋である。そのキリストは、迷子になった一匹の羊を自ら探し、そして自分の羊たちのために命を捨てた良き羊飼いである。「教会は群れであり、そして神が自ら飼い主になると予告し、その群れの羊が人間の飼い主によって管理されながら、自分の羊のために命を捨てた良き羊飼い、また羊飼いの王子であるキリストによって絶えず指導し給食される。」(「カトリック教会教理問答書]、754 項)
教会とは畑である。キリストはそこにあるブドウの木で、我々人間はその木から伸びていく蔓(つる)である。
教会とはキリストに気に入られ、清めるために自分と結ばれた、無原罪の仔羊の無原罪の花嫁である。(「カトリック教会教理問答書」、757 項)
教会とは全世界から集まった神の民、また神の家族である。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。](ーペト2 章9 節)。「地上で巡礼する者もあり、人生を終えて浄罪する者もあり、また『ある』 としての三位一体の神をはっきりと見て光栄を浴びる者もある。」(「Lumen Gentium 」、1 2 )しかし皆が、様々の程度で、様々の手段によって、生ける者、死せる者、また祝福される者という共同体の一員である。「全キリスト教信者の共同体を信じる。つまり、地上で巡礼の旅をする者、まだ浄罪している死者、そして天国の幸福を既に味わっている者は皆一つの教会によって結ばれている。」(「カトリック教今教理問答書J 、962 項)
教会とはキリストの母、教会の母、聖母マリアである。彼女は天国においてキリストの信者を母のように見守っている新しいエヴァである。そして、地上における巡礼の旅をしている我々神の民を導いている。

1 ・2 、葡萄の木。

3 、聖徒の交わり。

天使や人が登っている二つの梯子は、戦っている教会と苦難と勝利の教会との統一を象徴している。地上にいる人は天に向かって手を伸ばしており、天からは梯子を登っている人を引き込もうとする手が見えてくる。上にある円形は主の円光を象徴している。薄いピンク色の背景は神の民が巡礼する砂漠を表現している。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人とともに住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、[. . . ]」(黙21 章3 節)。

4 、迷子になった仔羊を背負っている良き牧者。

若者の姿で現わしてあるキリストは仔羊を抱きしめている。「[イエスはまた言われた。]わたしは善い羊飼い。善い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10 章11 節)。羊飼いのもとに曲がりくねる模様は道を象徴している。「イエスは言われた。『 わたしは道であり、真理であり、命である。』 」(ヨハネ14 章6 節)。背景は仔羊が迷子になった砂漠を象徴している。

5 、キリストと教会との一体を花嫁と花婿として現わしている。

「教会の花婿として表現されているキリストは予言者によって用意され、洗礼者ヨハネによって予言された。主自身も自分のことを花婿だとしていた。使徒ヨハネは教会のこと、そしてその各一員のことをキリストに約束された花嫁として現わしている。教会は無原罪の仔羊の無原罪の花嫁である。」(「カトリック教会教理問答書」 、796 項)「神がアダムの脇の骨から女性のエヴァを造ったように、キリストは自分の脇から水と血をもって教会を造ったのである。」(ヨハネ・クリソストモスの第三教理、3 . 19 )

6 、保護服を着ている聖母マリア。

左手には煉獄にいる者、右手には地に生きる人たち。それは「マリア様、ご自身のお衣で守ってください」という呼掛けを表現している。聖母マリアはサタンを表徴しているドラゴンを踏み潰している。

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