神田教会について

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第1窓

第1窓
全能の父なる神を信じる。
信仰宣言の絵画的な表現。

  • 全能の唯一神。「神はモーセに『 わたしはある。わたしはあるという者だ』 と言われ、また『 イスラエルの人々 にこう言うがよい。《 わたしはある》 という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』 」(出3章14節)、「『わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れた[. . . ] – h 」(出6章2節)。
  • 世代を超えていきる神。「『 わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』 」(出3章6節)。
  • 時代を超えていきる神。「神である主、今おられ、ハつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『 わたしはアルファであり、オ“ガである。』 j (黙1章8節)。三位一体の神。r [アブラハムが」目を上げてみろ一三人の人が彼に向かって立っていた。J (創18章2節)。

 1 ・2 、三位一体を象徴するクローバーの葉。

3 、アブラハムを訪れる主。

我らの信仰の父であるアブラハムは、輝く三人の人の前に地にひれ伏す。この絵は、貴賓に対して地に押しつぶされて無になったようなアブラろハムの姿を現わしている。「目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていたアブラハムは[ .. .]地にひれ伏して、言った。『お客様、よろしければ、どうか、僕の下を通り過ぎないでください。」(創18章2 、3節)。
ステンドグラスの右側と下の部分に見える曲がりくねった道は、旅人がやって来て去って行くものでありながら、神によるアブラハムの召し出しのシンボルでもある。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地を出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(へブ11章8節)。
「あなたは生まれ故郷父の家を離れて[ ..]行きなさい。」(創12章1節)。
ステンドグラスの下には、アブラハムの食卓の客席についている三人の天使が見える。それは、ロシアの有名な画家のルーロフが描いたイコンに従う聖像である。そのイコンは、昔から三位一体の表現として東方正教会でもローマ教会でも崇められている。

4 、神の名の現われ。

モーセは燃えている柴の前に顔を覆って身を平伏せている。「モーセは、神を見ることをおそれて顔を覆った。」(出3章6節)。
モーセは裸足である。「足から履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる土地だから!(同5節)。
モーセの上には聖なるホレブ山(シナイ山)が見える。左下にはモーセの杖を喩えている蛇がいる。「『 杖を取って、ファラオの前に投げよ』 と言うと、杖は蛇になる。」(出7章9節)。

5 、炎の雲の上に立って再臨しているキリスト。

全身には受難の傷痕が見える。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すペての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは「.,」神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる『 私はアルファであり、オメガである。』」 (黙1章7一8節)。

6 、父は、家に向かって歩いている息子を見つけて、遠くまで迎えに出て,息子に挨拶している。

「[ 息子が」まだ遠く離れていたのに、父親は、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15章20節)。
父に飛びつ<息子の疲れた姿は我らに喩えられる。自分の子供を抱きしめる父は安心感を与える。それは、自分の子供たちに対する神の思いやりを表している。「[わたしは]彼らの顎からくびきを取り去り[身をかがめて食ペさせた]。J (ホセア11章4節)。
ステンドグラスの上部には、ドアの間に立って叩いているキリストの謙遜の姿。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」(黙3章20節)右上には、ワインが置いてある食卓に着いて、自分の心を開いた人を抱きしめているキリストの姿である。三つの場面に見える石のようなものは吹の意味を象徴している。 

  •  清心と変心のシンボルである砂漠。「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(エゼ36章26節)。
  • 「わたしはーつの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない(イザ28章16節)。

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