カトリック神田教会

St. FRANCIS XAVIER CHURCH

ステンドグラス 第12窓

第12窓
罪のゆるしのためなる唯一の洗礼を信じる。

この窓はイエス・キリストへの信仰宣言や、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」(ルカ5 章24 節)。を絵画的に表現している。キリストは、復活してから、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる」(ルカ24 章4 7 節)よう使徒たちに頼んだ。そして、使徒また彼らの後継者は洗礼によって罪の赦しを行っている。つまり、それはキリストから与えられた教会への信仰の宣言である。「教会はキリストの血や聖霊の力によって罪を赦すために天国への鍵をもらった」(「カトリック教会教理問答書」、553 項)

1 ・2 、泉の傍の鹿。
それは、人の霊が飲む「生きた水」、つまり聖霊のシンボルである。「『 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。』 [. . . 」イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている《霊》について言われたのである。」(ヨハ7 章37 – 39 節)。
3 、ユダの接吻と回心した盗賊。
この場面はまさに死なんとするキリストと死にかけている盗賊との対話を描いている。「『 我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。[ . . . 」イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。』 と言った。するとイエスは、『 はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」(ルカ23 章41 – 43 )。その場面を強調するために十字架は二つだけ描いてある。ステンドグラスの上の部分には復活されたキリストと、最初の聖人としてキリストに伴う盗賊が見える。十字架の右側にはキリストを接吻するユダが描かれている。ユダは三年間キリストの弟子として彼と共にいたが、友人や師であったキリストを裏切った。その後、自分がキリストに愛されていることを信ぜず、自分の罪を赦すように頼まないのである。しかし、盗賊は以前た<さんの罪を起したけれども、自分の罪を認め、キリストに赦しを頼む。それで、キリストは一言をもって盗賊を楽園へ連れず行く。
4 、紅海の渡り。
洗礼による人間の浄罪を現わす古代のシンボル。「洗礼は浄罪のための初め、また根本的な秘蹟である。それによって我々 が、死者から復活して聖霊を与えているキリストと結ばれる。」(「カトリック教会教理問答書」、553 項)「主はわたしのカ、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。」(出15 章2 節)。
5 、使徒の足を洗う場面。
「イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりのないことになる。』 と[ ペトロに] 答えた。」(ヨハネ13 章8 節)。使徒の足を洗うことは各人間に対するキリストの愛を表している。罪を抱えながら人間は、神と共にいるために、神自身に足を洗らってもらうことを許さなければならない。ステンドグラスの上の部分では、自分の罪を後悔しているそういった罪人として描いてあるのは、キリストの足元で泣いているマグダレナである。我々信者はそういった人の子の謙遜をまねる必要がある。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13 章13 – 15 節)。
6 、使徒に聖霊を吹きかけるキリストと、天国の鍵を聖ペトロに手渡すキリスト。
「[イエスは]彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。』 」(ヨハネ20 章22 – 23 節)。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われる[. . . 」。」(マル16 章15 – 16 節)。「あなたはペトロ[つまり岩]。この岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。天の国の鍵をあなたに授ける。あなたが地上でつなぐものは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる。」(マタ16 章18 – 19 節)。

窓の配置

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本日の福音

  • 2017.03.29

     [そのとき、イエスはユダヤ人たちにお答えになった。]「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。《このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

    はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。《(ヨハネ5・17*30)

  • 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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