カトリック神田教会

St. FRANCIS XAVIER CHURCH

ステンドグラス 第2窓

第2窓
見えるものと見えないものとともに天地創造の神を信じる。

このステンドグラスは、創造の神に対する信仰を芸術的に表現するものである。神の創造対象とは
・宇宙
・人間、つまり人類の親であるアダムとエヴァ
・天使、つまり目に見えない存在。
2 つの場面は次のものを表現している。
・黙示録が語っている「新しい土地」
・理想のエヴァ(つまり聖母マリア)とアダム(つまりキリスト)

1 ・2 、花の形を連想させる天使たち。
天使は動作も意味しているので、人間の形になっていない。
3 、エデンの園にて動物や植物に囲まれているアダムとエヴァ。
まるで子供のような二人の体は、原罪の前で、まだ心のきれいな人間を現わしている「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創2 章27 節)。「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」(創2 章8 節)。
4 、最初に作られた光が無秩序から分離された様子。
光は抽象的なもので、緑の背景から現れてくる光のイメージも同様である。左下に見える手の形は全体の構成に動勢を加え、創造者の手を象徴している。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『 光あれ。』」(創1章2 -3節)。
5 、光でありながら聖なる町を照らす仔羊の御座とともに天から降りるエルサレム。
それは復活した新しい世界と教会を象徴している。「そこにはもう夜がない。」(黙21 章25 節)。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、[. . . ]聖なる都、新しいエルサレムが[. . . ]神のもとを離れ,、天から下ってくるのを見た。[. . . ]神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」(黙21 章1 -3 節)。
6 、燃えている柴の中にいる御子を抱いている聖母マリア。
聖母マリアは新しいエヴァで、救世主を生む新しい地でもある。中世のころ、燃えている柴に立っている聖母マリアの像は新しい創造、また聖霊による懐胎を象徴していた。「わたしはレバノンの杉のように、へルモン山の糸杉のように大き<育った。エン・ゲディのしゅろのように、エリコのばら、野にある見事なオリーブの木、すずかけの木のようにわたしは大きく育った。」(シラ24 章13 -14 節)「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。」(箴8 章22-23 節)。「最初の人アダムは生きている霊となり、最後のアダムは復活させる霊となる。[. . .」かくて最初と最後のアダムがいる。最初の者には始まりがあるが、最後の者には終わりがない。我は最初と最後の者である。」(ペトロ・クリソログ,「セルモネス」)「永久にいる全能の神よ、造られた物を感嘆すペきである。[. . .」天地創造も素晴らしかったが、救世という行為の方が素晴らしい。」(「復活祭の役目」からの祈り)「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべての物よりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロ1 章15-17 節)。

窓の配置

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本日の福音

  • 2017.03.29

     [そのとき、イエスはユダヤ人たちにお答えになった。]「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。《このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

    はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。《(ヨハネ5・17*30)

  • 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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